文章を書くことは面白い。 文章といっても千差万別ある。小説や標語、読書感想文、エッセイなどだ。 ここで指しているのは、主にエッセイと呼ばれる種類の文章のことをいう。
例えば、 食事にみる可換性 - tomato3713’s blog は書くのが楽しい文章だった。
内容はめちゃくちゃだが、一定の説得力を感じる文章になっていると思う。 この説得力を生むための工夫をすること、それが面白さだった。
一般的に書く技術といって思い浮かべるのは内容を正確に伝えるための文章を対象としているだろう。 つまり、メールで正確な依頼をするための書き方や何かの単語や事象を誤解がないように説明するための文章のことだ。 これらの文章は、事実の伝達という側面に重きが置かれている。 そのため一覧にしたり文の順番を変えるなどの工夫できる点は数多くあるが、書き手が自我を出す余白が小さい。 誰が見ても容易に、誤解なく、理解できるように書かなければいけないため、字面をそのまま読ませるような文章になる。 例えば、「夕日は赤い」や「Aという電子レンジの最大出力は1000Wだ」のように具体的で解釈の余地がない文章のこと。 一方で、字面には現れない、表すことが困難な微妙な書き手の感覚の差が表現されていることを自我がある文章、と僕は呼んでいる。
自我のある文章を説明するため、太宰治の「斜陽」の冒頭の私たちとお母さまのスウプの食べ方を比較して述べた文章を引用する。
スウプのいただきかたにしても、私たちなら、お皿の上にすこしうつむき、そうしてスプウンを横に持ってスウプを掬い、スプウンを横にしたまま口元に運んでいただくのだけれども、お母さまは左手のお指を軽くテーブルの縁にかけて、上体をかがめる事も無く、お顔をしゃんと挙げて、お皿をろくに見もせずスプウンを横にしてさっと掬って、それから、燕のように、とでも形容したいくらいに軽く鮮やかにスプウンをお口と直角になるように持ち運んで、スプウンの尖端から、スウプをお唇のあいだに流し込むのである。そうして、無心そうにあちこち傍見などなさりながら、ひらりひらりと、まるで小さな翼のようにスプウンをあつかい、スウプを一滴もおこぼしになる事も無いし、吸う音もお皿の音も、ちっともお立てにならぬのだ。(太宰 治「斜陽」)
この文章からは、字面にあるスウプの食べ方からはみ出て、私たちがお母さまにどういった印象を持っているのか、そしてお母さまの上品さと共に丁寧な所作を私たちは普段から感心して記憶しているという言語外の「私たちの自我」が表われていると僕は思っている。1
さて、この自我が感じられる理由はなんだろうか。 字面に表せないことを表現したいとなった時に思い浮かぶ手段は、関連性のある何かに例えることで未知のことを表そうとする比喩を使うことだろう。 実際、引用の中でもスプウンの動きを燕の動きや小さな翼が舞う様子に例えて表現している。 このように説明的に言葉だけでは表現しきれない事象Xと他の事象Yの間の類似性(もしくは相異性)を示すことで未知のXを説明したり、文に現れない感覚を表現することで面白さを生み出したりすることを直喩と呼ぶ。 佐藤信夫「レトリック感覚」 によると、直喩は、Yのようにと説明的に関係を示せるので、書き手が独自の感覚をもって発見した新しい認識を読者に共有するように求める。 さらに、直喩と並列されることの多い隠喩は、既によく知られて共通化されている認識を期待し、説明したいXと別の事象Yの類似関係とそれぞれ事象が持つ意味の重ね合わせによって新たな表現を行うと説明している。 本書では、直喩が効果的に使われた例として、川端康成の「雪国」の一文を紹介していた。
細く高い鼻が少し寂しいけれども、その下に小さくつぼんだ唇はまことに美しい蛭(ひる)の輪のように伸び縮みがなめらかで、黙っている時も動いているかのような感じだから、もし皺があったり色が悪かったりすると、不潔に見えるはずだが、そうではなく濡れ光っていた。(川端 康成「雪国」)
蛭を見たことがあればわかるように、本来蛭と唇には表面の滑らかさや色味、発音が似てはいても、そこに美しさの類似性はない。にも関わらず直喩が成立している。 このことを佐藤は、「のように」という表現によって読者に蛭と唇の間の類似性を書き手が要求し、読者は書き手を信じて、その認識を受け入れる。受け入れたうえで文章を読み進めることで、読者は納得し、蛭と唇に美しさの類似性があるという川端の認識を受け入れる。と説明する。
比喩は文学的な優れた感性から生まれるものだと思っていたが、それだけではなく比喩は新しい認識を作り、提案し、納得させる作業ともいえるということを知った。 僕は、この新しい認識を作る試みやそれを納得させるために表現の試行錯誤をするというところに創造性や独自性を生み出す面白さがあると信じる。
例えば、食事にみる可換性 - tomato3713’s blogは、ご飯とジャガイモが献立のなかで同じ位置づけにできるという認識を提案して、どうにか納得させられないかと考えて書いた文章だった。 説得のための工夫として、ご飯とジャガイモが可換であるという認識に至った過程を詳細に書き下したり、より受け入れやすい味噌汁とコンソメスープの例を冒頭で述べている。
「理屈と膏薬は何処へでも付く」とはよく言ったものだが、ランダムに選んだ無関係な2つの事象の間の類似性を説明できたとしたら創造性を感じられないだろうか。